東洋繊維の歴史
HISTORY
創業者 水谷定一
昭和12年 名古屋市中区にてメリヤス卸商 水谷商店を開業
昭和12年 名古屋市中区にてメリヤス卸商 水谷商店を開業
しかし、時勢は戦時体制に傾き日増しに統制が厳しく
企業統合が促進されていた
昭和18年 靴下工場を譲り受け、靴下製造業に転業
昭和20年 強制疎開にて岐阜市鏡島に移転
空襲の激化する時局から岐阜市鏡島に強制疎開となり、 重ねて氏は海軍の招集で軍隊生活を送ることになった。
昭和21年 東亜繊維工業設立
終戦後、岐阜市鏡島に帰ってみると無残にも空襲で原料は丸焼け。 かろうじて靴下編機だけが残っていた。
焼け残った靴下編機を前にし事業再開の意欲が湧き上がる。
岐阜県内同業者3社と合同し
東亜繊維工業有限会社を設立する。
昭和24年 岐阜市東栄町に移転
昭和44年 東洋繊維工業協業組合設立
同年 岐阜市加野に移転
発展途上国との競合激化が表面化し始めた昭和40年代初頭 水平統合による規模拡大でコスト低減、
同年 岐阜市加野に移転
発展途上国との競合激化が表面化し始めた昭和40年代初頭 水平統合による規模拡大でコスト低減、
生産性向上を目指すべく構造改革事業の実施を決意
岐阜県の指導を得て、同業者4社と協業組合を結成
岐阜県の指導を得て、同業者4社と協業組合を結成
平成2年 岐阜県関市に移転
平成4年 初代理事長水谷定一死去
2代目理事長水谷二郎就任
現在創業者水谷定一の掲げる「実践第一主義」の元
2代目水谷二郎はその意思を受け継ぎ
現在創業者水谷定一の掲げる「実践第一主義」の元
2代目水谷二郎はその意思を受け継ぎ
日本でのモノづくりを追求
現場の職人達は国家試験1級をとるなど
現場の職人達は国家試験1級をとるなど
国内でも有数の技術集団に成長
平成18年 株式会社東洋繊維 社名変更
平成25年 水谷顕冶 社長就任
3代目水谷顕冶は国内のみならず、積極的に海外工場を視察中国国内にも合弁工場を設立
3代目水谷顕冶は国内のみならず、積極的に海外工場を視察中国国内にも合弁工場を設立
百貨店・専門店はもちろん
トップアスリート用の靴下も開発
製造現場とお客さまの使用フィールドにも自ら足を運び商品開発を続ける。
製造現場とお客さまの使用フィールドにも自ら足を運び商品開発を続ける。
商業者水谷定一の掲げる、買う身になって物をつくり即断実践でのものづくりを実践する。
海外の工場も多数視察し、中国 ベトナム バングラディシュ等での生産も手かげつつ
日本製のモノづくりの優位性を認識し日々より良いものへ進化させている。
日本国内でもめずらしい全ての工程を備える一貫工場であり サンプルからバルク商品までが目の届く範囲で作られている。
日本国内でもめずらしい全ての工程を備える一貫工場であり サンプルからバルク商品までが目の届く範囲で作られている。